2008年12月11日 新国立劇場中劇場
本来僕は、翻訳物を進んでは見ない。理由は至極簡単。
違和感があるからである。
どう見ても日本人という役者達が、「マイク」「ミッシェル」などと呼び合うのを見ると、どうもお尻のあたりがこぞばゆくなってくる。
かといって、洋物を日本版にアレンジした作品にも、違う意味で違和感を覚える。
やはり、その戯曲の言葉が書かれた国で上演されるのが一番いいと思うが、そうすると東洋に住む我々はシェイクスピアには出会えなかったことになり、難しいところだ。
今回この芝居を見に行こうと思ったのは、その出演者の豪華さにあった。ことに、堤、段田、高田、秋山の4人の絡みがどうなるのかが楽しみだったのだ。4人ともさすがに期待に違わなかった。
舞台は円形に近く、本来の客席の向かい側にも客席が儲けられている。そこには布がかけられ、真ん中に出はけ口に仕える奈落がある。
この芝居の構造をうまく表した装置だ。
フランスはトゥーレーヌ地方。行方の分からぬ息子クランドール(堤)の安否を気に病む父親プリマダン(金内)は、友人のドラント(磯部)とともに、洞窟に棲む魔術師アルカンド(段田)のもとを訪れる。
プリマダンは「ご子息の輝かしい運命をお見せしよう。」という魔術師に誘われ、亡霊達によって劇のように演じられる息子の人生の有為転変に、まるで観客のように立ち会うことになる。
父親の金を持って家を逃げ出したクランドールは、ひょんなことからほら吹き隊長マタモール(段田)の従者となっている。マタモールは貴族ジェロンド(磯部)の娘、イザベル(秋山)に恋している。アドラス(坂田)という恋敵がいるが、マタモールは恋の橋渡し役としてクランドールを差し向ける。
しかし、このクランドールとイザベルが恋仲になってしまう。勿論、イザベルの父は猛反対し、イザベルを牢屋に監禁するが、クランドールはマタモールとともにイザベルの屋敷に侵入し、リーズが牢番(坂田)を騙して鍵を開けさせ、牢番の用意した馬車で2人は駆け落ちする。
それから時は流れ、イギリスの大公フロリラムによって取り立てられ、高い地位に就いたクランドールとイザベル。しかし、クランドールが大公妃ロジーヌ(田島)と不倫をしているという噂が立つ。
イザベルとリーズは大公の家の入り口近くで隠れて様子を見ていると、クランドールが現れる。フードで顔を隠したイザベルをロジーヌと勘違いしたクランドールは、ここぞとばかりにロジーヌに対しての愛の言葉を語りかける。イザベルは顔を現し、クランドールを問い詰める。クランドールは、ロジーヌのことは一時の気の迷いだった、本当に愛しているのはイザベルだけだ、と釈明する。
と、そこへロジーヌが現れ、自分への心変わりを語るクランドールを責める。
その現場にフロリラムの召使い達が現れ、大公への裏切り行為への罰として、クランドールを殺してしまう。
この顛末を見た父親は、息子の死を見てすっかり絶望し、自ら命を絶つと言い出す。
しかし、これには続きがあった。アルカンドが見せた結末、それは舞台終了後にギャラを受け取るクランドールの姿。そう、彼は今や役者になっていて、今まで起きていたことは、全てクランドールが演じた芝居の中の出来事だったのだ。
とにかく台詞の量が凄い。演出の鵜山がパンフで「何故しゃべる?」という文章を載せているように、主要な登場人物達はよく喋る。例えば、「愛している」ということを伝えるのに、手を替え品を替え、様々な言い回しを駆使する。
鵜山の前出の文章によれば、「演劇に求められるのは言葉を声として発する際の、肉体と精神とがかけ合わさった表現力の豊かさだろうと思います。(中略)一つひとつの「声」が秘めている驚き、感動、これはやはり立派なスペクタクルです。」ということになるのだが、こういうことは小劇場経験者がやはりうまい。秋山や田島は正当派の演技で、それはそれで安心してみていられるけれど、堤、段田、高田は小劇場演劇で培ってきた「お遊び」精神が随所に顔を出し、長台詞が単調にならない。また、体の使い方のバリエーションも多く、芝居にテンポを出すのに大きく貢献していた。
こういうところで80年代の小劇場運動の遺産を発見すると嬉しくなってしまう。
ストーリー自体は特段奇をてらっているわけではなく、極めて分かりやすく単純な喜劇なので、こういうお遊び的な演技が生きるのだろうし、それがないと逆に見ていられない。
最初にアルカンドがプリマダンに「息子さんが着ていたものだ」といって様々な衣装を見せる(天井から降りてくる)のが第一の伏線だったのか、と後で気付かされた(つまりは、クランドールが「役者として」着ていた「衣装」を見せたわけである)。
こんな具合で伏線も分かりやすく、大した捻りもないため、物語としてはあまり面白みがない。
そこをカバーするのが、先の鵜山のいう「声」によるスペクタクルであろう。先の3人についていえば、そこに独特の身体表現も加わる。
役者の巧みさに魅せられた2時間だった。
なお、余談であるが、「思考過多の記録」にも書いたとおり、僕の隣に座った中高年の女性の観客が、飲食をしながら見ていた。これが非常に気になって、落ち着いて観劇できなかった。
劇場では「客席内では飲食禁止」のアナウンスもなく、無料で配布されたパンフの最後のページに、アリバイ的に注意事項として書かれているだけである。
客席内飲食禁止は常識だと思っていたが、こういう非常識な人間も存在する。
もし演劇関係者がこの文章を読んでいたとしたら、主催される公演では、「場内飲食禁止」をアナウンスで複数回呼びかけるか、場内のスタッフが注意を喚起するようにした方がよいと、老婆心ながらご忠告申し上げる。