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走れメルス~少女の唇からはダイナマイト~

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走れメルス~少女の唇からはダイナマイト~(NODA MAP)

~観劇日・劇場

2005年1月9日 シアターコクーン

~作・演出・出演

  • 作・演出/野田秀樹
  • 出演/深津絵里・中村勘太郎・小西真奈美・河原雅彦・古田新太・小松和重・浅野和之・松村武・腹筋善之介・六角慎司・櫻井章喜・峯村リエ・濱田マリ・野田秀樹

感想

ハートハートハートハートハート

走れメルスこの作品は、遊民社時代の野田の代表作の一つということになっている。NODA MAPが遊民社の作品を上演した例は「半神」「透明人間の蒸気(ゆげ)」があるが、この2作品は後期の作品で、現在の野田作品に通じるものが色濃く表れてきたものだ。それに対して、「走れメルス」は初期の作品であり、何度か上演されたのだが僕は一度も見ていない。遊民社が一世を風靡していた頃のテイストいっぱいのこの作品がどんな形で今の僕の目の前で展開されるのか、期待に胸をふくらませて劇場に向かった。そして、その期待は裏切られなかった。
 「玩具箱をひっくり返したようだ」と評された時代の作品だけに、粗筋を正確に追うのは非常に難しい。世界は「こちら岸」と「向こう岸」で展開され、多くのキャストは両岸の登場人物を演じる。
 「向こう岸」の世界のアイドルスター・メルス・ノメルク(河原)は、零子(小西)の結婚披露宴で歌を披露するが、結婚相手が気に入らない零子に連れ去られ、女子トイレに監禁される。自分の引退公演の台詞すら作られているというメルスは、自分が何者なのか分からないと苦悩する。零子はメルスをそそのかし、2人は湯船に浮かべた石鹸の蓋を想像力の戦艦にし、湯船の湯気の向こう側の世界に旅立つ。消えたメルスを、芦田刑事(古田)達が追跡する。
 一方、「こちら岸」の世界では、しがない下着泥棒・久留米のスルメ(中村)の仕事ぶりを鏡越しに覗いていた芙蓉(深津)がスルメを部屋に引き込む。スルメはすぐに芙蓉の虜になる。その町の支配者・大地主(古田・二役)の息子・百太郎(小松)も芙蓉に思いを寄せていた。芙蓉は母親の形見である「青春歌集」を広げては、出鱈目な物語を紡いでいた。それはいつも、「ぬしがしぬとぶかにするの、メルス」という不思議な疑問形で終わっていた。その歌集によれば、砂糖に火をつけ、その煙で仮死状態になったとき、煙の向こうからやってくる誰かと会えるという。芙蓉がそれを実行すると、砂糖の煙=鏡の向こうからメルスが現れる。

 詩的で、疾走感のある舞台だ。オープニングで、エンディングに通じる焼け跡がせり上がっていくと、その下からメルスのコンサートの狂騒が現れるところから驚かされた。全編が初期の野田戯曲特有のリズムとテンポのある台詞で彩られ、ある言葉のイメージからシーンが次々に変わっていったり、別々に展開していた二つの世界の話が交錯したりと、懐かしの小劇場テイストが満載である。しかし、不思議に古さが感じられないのは、その根底に、表面的な方法論では語り尽くせない普遍的な何かがあるからなのだろう。はっきりと言葉には表せなくても、白紙の「青春歌集」を後生大事に抱えて生きている芙蓉の儚さ、悲しさや、「お砂糖に火をつけて」という芙蓉の願いを「お里に火をつけて」と聞き違って放火してしまうスルメの哀れさ、そしてメルスに芙蓉の心を奪われたと知って、業火の中で芙蓉を刺殺するスルメ、そのときの2人の思いなどが、確実に客の胸に突き刺さるようにできている野田戯曲と演出の力で、僕は2時間舞台に釘付けにされていた。

 役者は、脇に至るまで全員よく動き、パワー全開の非常に贅沢な舞台。スルメの中村が、台詞回しも体のこなしも少し固いという印象を受けた。男を手玉にとるが実は寂しい女の芙蓉に深津はぴったりはまっていたし、「赤鬼」で好演の小西は関西弁でポンポンと啖呵を切る姿が実に小気味よかった。河原の屈折したメルスもしっくりきていたし、脇を固めるアンサンブルの刑事/大地主チームと女学生/桐島家チームも面白かった。桐島家の3人娘の中では、峯村のキャラが一番立っていた。また、刑事チームでは元遊民社の浅野がさすがに堂に入ったものだった。しかし、何といっても脇の筆頭は古田だろう。小技・くすぐりを縦横に繰り出し、しめるべきところはばっちりしめる。安定感・爆発力ともに頭一つ、いや二つくらい抜けていて、さすがだと思わせた。野田は二つとも女性役で、生き生きと動いていたが、大奥様で大地主の古田と絡むシーンが特に面白かった。

 舞台が天幕のような布で囲まれ、の隙間から役者が出入りしたり、ひびのこづえの独特の衣装など、ビジュアル面でもいつもながらに楽しめた。

 パンフレットに野田は「この『走れメルス』は、古い『若い』表現者からの、今の『若い』表現者への挑発であり、挑戦である。」と書いている。先に書いたが、これは小劇場全盛期の作品であるにもかかわらず、未だその輝きを失っていない。それは戯曲自体の力もあるし、それに新たな息吹を吹き込んだ現在の演出、役者などの力もある。今年50になるという野田が、まだ若手の追いつけない物を作り続けている。この一点だけでも驚愕に値するだろう。そして、改めてあの小劇場運動やそこから生み出された作品世界の豊穣さ感動させられる。
 僕はこの舞台から様々なパワーをもらった。僕の中ではここ1年で五指に入る刺激的な舞台である。