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構造

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【public doc】「構造」

~観劇日・劇場

2009年7月12日 Gallery LE DECO

~作・演出・出演

  • 作/加山絹子
  • 演出/佐藤信也
  • 出演/岸本尚子(Eja9)・伊藤優(InnocentSphere)・時田光(元氣プロジェクト)・松岡大輔(PADETER)・加藤芙実子・鶴見ホームラン(Tuesdays!)・三瓶大介(ククルカン)・あだち麗三郎・安藤曉彦(Kuruucrew)

感想

ハートハートハートハートハート

久し振りに、本当に胸苦しい芝居を見た。上演中、本当に呼吸困難に陥るかと思った。

 場所がギャラリーということもあり、空間は限られていたが、面白く使っていた。
 黒くトゲトゲのあるような低い囲いで囲まれた演技スペース。
 天井から吊り下げられたいくつかの三角錐のオブジェ。これは、シーンによって別々のものが別々の色に光る。
 話が進むにつれて、それが鍾乳洞をイメージした舞台美術であることが分かる(舞台装飾;山本愛・美術;【public doc】)なかなか秀逸な作りだ。

 物語を直線的に追うのは難しい。
 今「鍾乳洞をイメージした」と書いたが、実際は鍾乳洞ではないようだ。
 主人公の彩花(岸本)は3度目の流産をして、恋人に逃げられた。そんな彼女を気遣って、「親友」の悠子(伊藤)が見舞いに来る。悠子は極端に人見知りで、唯一彩花にだけは心を開いている、ように見える。
 しかし、彩花はどこかそんな悠子を疎ましく思っている。
 一方、悠子の「弟」の瑞樹(時田)も見舞いに来るが、彩花は露骨に嫌そうな態度をとる。そんな姉に反発を感じながらも、瑞樹は何とか姉を元気づけようとする。
 しかし、2人のそんな態度が、余計彩花をいらつかせる。

 とはいえ、彩花は、瑞樹が幼い頃から生ゴミを学校に持って行くなどの奇行に走っているのを嫌悪しながらも、自らも親からの暴力に耐える身であることから、瑞樹の「優しさ」を求めていた。
 そして、瑞樹との関係をやり直したい、そのためなら、悠子との関係が犠牲になってもいいと願う。

 場面は変わって、今度は瑞樹の目線からのきょうだいの関係が描かれる。
 ここでも瑞樹は、姉に対して優しくあろうとするが、結局はお互いに昔から鬱陶しいと思っていたことが明らかになってしまう。

 この後、彩花と悠子の関係や、瑞樹と直美(加藤)、そしてその恋人の優司(鶴見)との“三角関係”が描かれる。
 どのシーンでも、お互いがお互いを思いやろうとするのだが、お互いに隠し事をしていたり(例えば、優司がEDなので、直美は寂しさを紛らわせるために毎週土曜日に違う男とホテルに通っていた)、それに気付かないふりをしていることで、かえって相手を傷付けていたりと、微妙なバランスの関係が崩壊していく過程が描かれる。

 時折、リュックを背負った常磐(三瓶)が現れ、彩花や瑞樹に声をかける。
 その時は、名乗ったり、「誰でもありません」と言ったり、自分を鍾乳洞オタクと言ったりするが、結局はどんな存在なのか、最後まで見ている人にははっきりとは分からない。
 彼は誰に対しても、
「ここでは、全てがあなたの望んだとおりになります。だって、ここはあなたの中なんですから」
と言う。
 それを聞いて主人公が望みを告げると、シーンが変わるのだ。
 が、結局は前述したとおり、それでもお互いが「偽り」の優しさで関係を保とうとするために、決して「望んだとおり」にはならない。

 最初は「真実が知りたい」と言っていた彩花だが、最後は「嘘で固めた世界」を望む。

 実に繊細で、痛い芝居である。
 腫れ物に触るように彩花に接する悠子、実は女なのに男の格好をして、女である直美を好きになってしまった瑞樹、自分が原因であることから直美の秘密を知らないふりをしなければならず、直美の後ろめたさから来る優しさに惨めさを感じる優司。
 そして、誰の優しさにも欺瞞を見つけてしまい、そんな自分を責め続ける彩花。
 誰もが、相手との関係から取り残され、それを埋めようと必死になり、そうすればするほど相手との亀裂が深まっていく。
 まさに、鍾乳洞のような不気味な閉塞した状況である。
 そして、この物語の登場人物は、みな神経症的なまでに人間関係に敏感である。そうであるが故に、相手から差し伸べられた手に触れると、かえって痛みを感じてしまうのだ。

 常磐は、自分が「ハメルンの笛吹き」事件で、置いてきぼりにされてしまい、鍾乳洞を彷徨う少年だったことを告白する。
 パンフレットで作者の加山は
「今回のお話は、残された人の話です」
と書いている。
 劇中で何度も、
「優しいから、残酷なんだよ」
という印象的な台詞が出てくるが、何か(誰か)から取り残された人間にとってはそういうことなのだろう。
 この不安定な状況をさらに増幅させるような、笛吹き男(あだち)の吹くサックスの不協和音的な音色も効果的だった。
 ただ、途中で登場する、瑞樹の後輩という軽いピザ配達人の存在は、瑞樹の内面を浮かび上がらせる効果はあるものの、なくても物語は成立するかな、という気がした。
 とはいえ、このピザ屋(配達先に受け取るべき人がいなかった)と常磐の会話は、鴻上尚史の『朝日のような夕日を連れて』のゴドー1とゴドー2の会話を彷彿とさせた。

 役者はみな好演。
 この苦しい、行き詰まるような雰囲気を、最後まで舞台に充満させることに成功していた。
 瑞樹役の時田は、所謂「性同一性障害」なのだが、「女」として話すときの声のトーンや台詞の言い方に、もう少し変化が欲しかった。
 彩花の岸本は、いつもは溌剌とした、または凛々しい役が多いが、今回は真っ直ぐなだけに強気に相手の「優しさ」の欺瞞をその相手に突きつけるという役柄にぴったりだった。
 常磐の三瓶は常に元気いっぱいで笑顔を振りまき、それがかえって不気味さを醸しだし、それがじぶんの「身の上」の告白で弱気になってしまうところを浮き立たせることに繋がっていた。
 他の3人は、やや造形が似ていたが、中でも悠子の伊藤は、おどおどしながら「優しさ」を押しつけてくる(装っている)役を好演。確かに、こういう人間にまとわりつかれるとイライラするなと思わせた。
 が、この悠子は、唯一彩花と仲良くなれた理由を、
「彩花も、こっちの人だと思ったから」
と言っている。これもなかなか意味深である。また、岸本はその台詞が真実をついているかも知れないと思わせる演技をきちんとしていた。

 脚本が巧みで、見ていて飽きることはなかったし、嘘くさく感じるところもなかった。
 が、本当に見たくないものを目の前に突きつけられた思いだった。
 【public doc】は前作でも、このような作風の舞台を上演していた。
 人間の奥底にある、どうしようもない「真理」を突いていることが、この息苦しさに繋がっているのだろう。
 楽しいことばかり描く傾向にある昨今の演劇状況の中では貴重な存在だ。
 ただ、本当に苦しいので、次回は2010年1月の公演だそうだが、それくらい間を空けて見た方がよいだろう。例えば、半年ごとに公演があったりすると、次に行くのが辛くなる。
 これは貶しているわけではなく、それ程インパクトのあるものが作れているということなので、息長く活動してくれることを願っている。