Favorite Banana Indians

Mail

ナイス・エイジ

ホーム>レビュー>ナイス・エイジ

ナイス・エイジ(NYLON100℃)

~観劇日・劇場

2006年12月23日 世田谷パブリックシアター

~作・演出・出演

  • 作・演出/ケラリーノ・サンドロビッチ
  • 出演/佐藤誓・志賀廣太郎・原金太郎・坂田聡・池谷のぶえ・加藤啓・立石涼子・松野有里巳・峯村リエ・大倉孝二・みのすけ・松永玲子・長田奈麻・新谷真弓・安澤千草・廣川三憲・藤田秀世・喜安浩平・大山鎬則・吉増裕士・杉山薫・植木夏十・皆戸麻衣・柚木幹斗・秋山菜津子(声)

感想

ハートハートハートハートハート

ナイス・エイジ久々の観劇である。しかも、ナイロンは初見参。ずっと気にはなっていたのだが、何故かチャンスがなかった。これは数年前に上演したものの再演だった。

 2000年8月12日。かつては裕福な暮らしをしていたが、今は没落し、家庭崩壊状態の廻一家がぼろアパートに越してきた。キッチンドランカーで常に酒臭い澄代(峰村)と仕事はないが態度は大きい時雄(佐藤)は喧嘩ばかり。気の強い次女の春江(長田)は車で家を勝手に空ける。その弟の時次(大倉)は売れない劇団員だが、春江の車のナビを勝手に改造してしまったりしている。その日は、1985年の日航機事故に巻き込まれて亡くなった長女の想子(新谷)の誕生日にして命日だった。
引っ越してきたばかりの一家を、大家の堺井夫婦(原・池谷)が訪ねてきている。怪しげな歓談話をしながら、何とか一家を追い出そうとするのだが、逆に一家の「立ち退かない」という意思を固くしてしまう。実はこの堺井夫婦は、「時間移動装置」(タイムマシン)が一家に一台ある未来からやってきたタイムパトローラー。時間移動をした人間が歴史を勝手に改ざんするのを監視する任務を負っていた。そして、廻家の部屋の風呂が、その湯加減次第で移動する時代が決まるという時間移動装置になっていたのだ。そして、堺井夫婦が立ち去った直後、入浴しに行った時雄がタイムスリップしてしまう。
一方、時次がナンパしてきた葉子(松永)は春江に異常に関心を示し、「あなたによろしくって言ってました。」と不可思議な伝言をする。実は葉子は、未来からタイムスリップしてきた春江の娘だったのだ。
時雄が移動した時代は1964年。時雄は17歳の自分と出会う。この時の時雄は金持ちの息子で、同級生の箕輪(安澤)に片思いされながら、売れないシュールな芸人のカンダタ(坂田)に入れ込み、金銭援助を約束していた。廻家を没落に導いた張本人と飲み屋で遭遇し、思わず喧嘩してしまったりしている。
時雄を連れ戻そうと追いかけてきた堺井があと一歩のところで取り逃がしている間に、時雄は特効を志願した叔父が亡くなった1945年へ移動。若い頃の自分の母親に会う。同じ頃、時次は1964年へ、春江は想子の亡くなった1985年へ移動し、姉を飛行機に乗せないために、姉の恋人・達人(加藤)をも巻き込んで必死に行動する。澄代は2019年に移動。タイムスリップ前の葉子に会い、その日が春江の葬式の日だと聞かされる。そして澄代は、家族を連れ戻すために各時代を巡る。
タイムスリップが多発し、収拾が付かなくなった時間管理局の司令部は、全ての人類の記憶を、生きるための最低限のものを除いて消し去る「プランB」の発動を決める…。

 一言で言って、荒唐無稽なお話である。時間管理局はいつの時代に存在しているのか。その権限はどの時代まで及ぶのか。2000年の時点でボロアパートに時間移動装置があるのは何故か。プランBの発動により記憶が消えたのなら、その時点より未来や過去の自分達は存在しないはずではないか等々、突っ込みどころは満載である。まともに考えたら、役者は役作りが全くできない本だと思う。これは、おしなべてタイムスリップものが持っている矛盾点である。
しかし、そういう詮索は野暮というものなのだろう。とにもかくにも、ナイロンはこれをエンターテインメントとして見せた。それぞれのシーンに人情ドラマがあり、しかしそこにどっぷり漬からないように、KERAはナンセンスだったりブラックだったりのギャグを塗してみせる。オープニングの出演者(ほぼ)全員によるダンスは、かつての小劇場テイストを感じさせた。
ただ、見方によっては全体が中途半端な印象にもなる。「これは所詮‘お話’ですよ」という強い居直りが感じられず、例えばタイムパトローラーの無線装置が未来の割にはやけに大きかったりする等、アリバイ的ににおわせるだけだ。それをもっと派手にやってしまうと、全体がシュールな感じになりすぎて、とてもパブリックシアターでできるほど客が呼べるものではなくなると踏んだのだろうか。様々な時代を移動してきた家族が、最後に再び元の時代に戻ってきても結局何も変わらないという結末は、確かに「ベタ」を避ける方法論だし、人間とはそういうものなのだが、だとするなら最後に全ての記憶が消えていくという儚げで格好いい終わり方ではないものを期待してしまう。僕がKERAを買い被りすぎているのだろうか?

 役者陣はこの世界観の中で魅力的である。というより、この嘘くさい世界にリアリティを与えていたのは役者陣、それもベテランを中心とした人達だった。佐藤は低くて落ち着いたトーンで芝居の浮ついた感じを消していたし、原はさすがである。さすがと言えば、原の妻役の池谷は原に存在感で負けていなかった。立石は貫禄である。佐藤と二人で、蓄音機の音楽に合わせて踊るシーンなどは上質の舞台という感じだ。みのすけ・峯村といったナイロンのメンバーの安定感もよいが、僕は春江役の長田と箕輪役の安澤がいいと思った。どちらもパワーがあり、役作りに無理がなかった。
意外だったのは大倉。ナイロンの世界観の中にいると、あまり引き立たない。客演先で見ると、癖のある独特の動きとキャラが強い印象を残すのだが、それが感じられなかった。逆に、大した役でもないのに目立ってしまう志賀は凄いと感じた。

 芝居の冒頭部分に、その志賀演じる大学教授と池谷演じる猫好きの主婦が、テレビ番組にコメンテーターとして招かれ、池谷には時間に関する専門的な質問がされて、それに池谷は的確に答える。そして、志賀には猫の生態に関するどうでもいい質問がされて、志賀が答えに窮して憤慨するというシーンがある。こういうシーンをもっと効果的に使ってほしかったというのが正直な印象だ。とはいえ、過去の気になる「あの時」に戻ってみたいとか、未来の自分に会ってみたいというのは多くに人が感じることだ。そのへんを掬ったこの脚本はうまいとも言える。実際、休憩を挟んで3時間以上の芝居だが、役者の力もあってか長さは感じなかった。
KERA流の‘口当たりのよい’‘取っつきやすい’作品の代表作がこの「ナイス・エイジ」だとすると、別の色の作品が見てみたくなるのが人情というもの。KERA自身が、ナイロンは公演ごとに違う色の芝居を打つ旨の発言をしている。この後、KERAがどんな作品を書くのか、どうやってシュールとエンターテインメントの綱渡りをしていくつもりなのか、興味津々である。