2009年2月21日 シアターコクーン
2009年最初の公演は野田MAPからとなった。なかなか幸先のよいスタートである。
しかも今回の芝居は、キャストが超豪華。
ピンで使っても全然おかしくない(実際、2人とも過去の野田作品でピンで主役をはっている)松たか子と宮沢りえをいっぺんに使い、そこに橋爪功を絡ませる。演劇ファン垂涎の顔合わせである。
そして、期待通り、いやそれ以上に豊穣で素晴らしい舞台となった。
野田の今作は、設定がSFのようである。
今から100年後、人類は火星に移住し、それからさらに900年が経った火星が舞台である。
設定だけ聞くと高校演劇のようだが、そこは野田秀樹。ちゃんと奥深く、黙示録的で壮大な人間ドラマを紡ぎ出している。
火星のある場所にある「ストア」と呼ばれる所。そこには主人のワタナベ(橋爪)が娘のフォボス(宮沢)とダイモス(松)と一緒に暮らしている。
妹のダイモスは店の近辺しか見たことがない。一方姉のフォボスは幼い頃母親と火星を放浪してこの店にたどり着いた過去を持ち、別れてしまった恋人が帰ってくるのを待っている。
そのストアに、キム(大倉)と名乗る少年がやってくる。どうやらワタナベが連れ込んだ若い女性・マトリョーシカ(佐藤)の息子らしい。彼は記憶の天才である。
ワタナベはキムに、自分が収集してきた「死者のおはじき」を見せる。
それはかつて、火星で生まれた人間が皆、生まれると同時に鎖骨に埋め込まれたという「第三の瞳」。その人間が一生に見てきたものを記録し、死んだ後に取り出された物だ。
それを自分の鎖骨に当てると、骨伝導でそのおはじきが見た光景の記録を再生できるという仕組みである。
そしてワタナベ、キム、そしてダイモスとフォボスは、ワタナベの食い道楽の歴史=火星の歴史を見ることになるのだ。
この火星には、人類の他に「パイパー」と呼ばれる生命体が住み着いている。パイパー達は火星の構築物を破壊し、残り少なくなった人類を殺し、火星を廃墟にしようとしている。
しかし、死者のおはじきに記録された火星初の人類到達の時に一緒にやってきたパイパーは、発明者のアーノルド・パイパー博士によれば、人間達の幸福を手助けし、暴力を発見するとそれを吸い込んでしまう存在だった。
また、記録によれば、パイパー博士は人間の最大多数の最大幸福を数式によって数値に表した「パイパー値」なるものを発見した。火星に降り立った時点での火星の人類のパイパー値は777。統括者・ゲネラール(野田)はその目標数値を8888と定める。
しかし、突然その数値が下がりだした。
原因は火星移民の1人、ビオラン(北村)が女性に暴行を働いたためだ。
ゲネラールはビオランを地球へ強制送還すると命じるが、ビオランは火星の果てに逃走。これが発端となり、その後、ゲネラール一族とビオラン一族の争いが始まるのだ。
そうしている間に、ダイモスは行き倒れになった男達を次々に「ストア」に連れ込んで、睦言を行い、子供を孕んでしまう。
そのダイモスは、自分の母親の記録を見たいと願う。フォボスは「止めろ」と言うが、偶然見つけた母親のおはじきによって、ダイモス達は火星の週末のきっかけと、パイパーが変化した原因、姉妹と母親の過去、そして、ワタナベの「食い道楽」の本当の歴史を知るのだった。
火星における人類の世紀末の話だが、どうしても地球における人類の破滅へと向かう歴史を重ね合わせずにはいられない。
「パイパー値」という数字の上下に一喜一憂する人類は、統計や株価等の数字に踊らされる今の人間そのものの姿だ。
火星に最初に食物の種を蒔いたガウイ(田中)のお陰で、その後その食物を食べる「ベジタリアン」達ガウイやゲネラールの祖先が、いつの間にか火星の支配者になり、人工食しか食べないビオラン達によって「原理主義者」として弾圧され、金星に追放されるといったあたりは、文化・宗教対立の戯画化である。
そして、タイトルにもなっている「パイパー」という存在は、人間を幸福にするために科学によって作られたという設定だ。それが、ゲネラール一族とビオラン一族の争いを目の当たりにしたとき、パイパー達は「リワインド(=元に戻す)を開始します」と言って、今まで吸い込んできた暴力を一気にはき出して人間達を襲いだし、全てを破壊し始める。
これは、人間が生み出した「科学技術」によるあらゆる創造物が、人間を滅ぼしていくというアレゴリーではないかと僕は解釈した。
そして、廃墟と化し、食物も空気も底をつき始めた火星で生き延びてきたワタナベが食べていたものとは、パイパー達が運んできた人間の死体の肉だったという結末も、衝撃的だが妙に納得する。極限にまで追い詰められた人間の末路は、いつの時代も変わらないということか。
「ストア」とは火星では「墓場」を意味するというのは、非常にぞっとする皮肉である。
役者は、勿論全員が申し分ない演技。
やはり松たか子と宮沢りえは魅せる。普通は宮沢を引きこもりのダイモス、松を活動的なフォボスにキャスティングするところだが、これを逆にしたのがみそで、それがまたうまくはまった。
途中の歴史再現シーンでは、2人の祖先がフードコーディネータという名の食堂のおばちゃんだという設定が笑えるが、そのシーンになった途端、2人とも物腰や台詞の感じがちゃんとおばさんくさくなる。そして、同じく再現シーンのフォボスとその母では、松が凛とした母を、宮沢が無垢なフォボスをちゃんと演じる。
つまり、この2人は3つの役を一瞬で転換して行ったり来たりするわけだが、全く無理がない。
そして、母とフォボスが火星の廃墟を彷徨うシーンでは、2人が目にした廃墟の描写を延々と短い台詞で掛け合っていくところがある。息はぴったりで、客にもちゃんと廃墟が見える。
さすがは当代一の女優の共演だ。
この2人を見ているだけでも見応えがあるが、橋爪の怪演ぶりも相変わらずだ。
この3人の存在だけでも、火星の1000年後という現実離れした設定が、全く荒唐無稽に感じられず、まさに今起きていることのような現実感を表現している。
また、キムの大倉は、いつもの癖の強い演技を適度に抑制することで、ちょっとエキセントリックな少年という役を、これまた現実感あるものにきちんと造形していた。今まで見てきた役の中で、一番しっくりきていたと思う。
台詞のある役の他に、今回は50人のアンサンブルを使った。
コンテンポラリー的な動きをさせたり、群衆に使ったりと随所で活躍した。
「移民」の話なので、舞台にたくさん役者がいた方が確かに説得力はある。ただ、あまり舞台全体に広げて使っていなかったので、人数による迫力があまり出ていなかった気がする。
パイパー達を演じたのはコンドルズというグループである。
手の先に長いパイプのような物を付けていて、そのパイプの形状が変わることで、パイパーの性格の変化を表現する。蛇腹になっているパイプは結構長いので、さばくのが大変だったと思うが、動きの変化をもっとつければパイパーの変化が分かりやすかったかも知れない、と思うのは素人の見立てだろうか。
また、芝居全体の雰囲気も、「キル」や「ロープ」に比べて躍動感が少なく、押さえられた感じになっていた。テーマがテーマだけにあまり浮き足だった印象を与えたくなかったのかも知れない。
賛否両論あるだろうが、役者の演技をじっくり見られたという意味では、僕はよかったと思う。
なお、最後にワタナベが地下室から死体を引きずって来て、「食べるか?」とやるシーンがあるのだが、ここは敢えてマイムにしてあった。
人工食などはちゃんと小道具が用意されている中で、一番生々しい「死体」をマイムで表現したのは、勿論具体的に見せるよりも、観客の想像力に委ねる方が効果的であると計算してのことであろう。
最近の野田は「オイル」や「赤鬼」の再演あたりから始まり、「ロープ」「THE BEE」と「暴力」、それも常軌を逸した暴力を渇望するかのような今の時代に、真っ正面から切り込んでいるという印象であるが、今回の「パイパー」もその延長であると考えられる。
「癒し」やひとときの楽しみを提供する芝居は多いが、こうした同時代性をエンターテインメントで表現する野田の世界は希有な存在だ。
大江健三郎が言っていたが、まさに作家とは、炭坑府が炭坑に連れて入るカナリアのような存在なのだろう。
この芝居で何回か語られる「希望なんて絵空事」「絶望も絵空事。希望と同じくらい」という台詞が耳に残った。
ラストシーン、ストアの周りにぽつぽつと花が咲く。
そして、恋人が帰ってきたと告げられたフォボスが、恋人のもとへ走り去っていく。そして、後を追うようにダイモスも荷物をまとめ、自分が連れ込んだ男達と旅に出て行く。
花の間をゆっくりと歩いていくダイモスを見送るワタナベとキムの後ろ姿で物語は終わる。
心の奥がじーんとくる、希望でも絶望でもない、印象的な幕切れである。
まさに「極上」とも言える舞台だった「パイパー」。
次回の野田MAP「ザ・ダイバー」には、何とあの大竹しのぶが久々に出演するとか。これまた、是が非でもチェックしなければならない。
余談ではあるが、50人のアンサンブルの中に、かつてα.C.m.e.を率い、FBI第2回公演に参加していた長谷川寧が入っていた。どうやら、野田のワークショップに潜り込み、声をかけられたらしい。
彼の今の活動拠点「冨士山アネット」のサイトには、野田のコメントがある。
やはり才能がある人間は、どこにいてもちゃんと見いだされるものだと、羨ましく思った。