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二丁目のグッドバイ(開店花火)

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「THE BEE(JAPANESE Version)」(NODA MAP)

~観劇日・劇場

2012年4月26日 水天宮ピット

~作・演出・出演

  • 作・演出/野田秀樹
  • 出演/宮沢りえ・池田成志・近藤良平・野田秀樹

感想

ハートハートハートハートハート

二丁目のグッドバイこれはとても刺激的な舞台である。シアタートラムでの初演時も当然英語版ともども見ていて、今回もENGLISH Versionも見たが、また印象が変わった。

 しがないサラリーマンの井戸(野田)が、ある日息子の誕生日プレゼントを持って帰宅すると、自宅の周りには警察の規制線が張られ、あっという間にマスコミに取り囲まれる。何と、井戸の家には脱獄犯の小古呂(近藤)が、井戸の家族を人質にとって立てこもっているという。その場を仕切ろうとするだけで何もしようとしない百百山警部(池田)達警察に業を煮やした井戸は、小古呂の家に行き、ストリッパーである小古呂の妻(宮沢)に小古呂の説得を頼む役を自ら買って出る。
安直警部(近藤)と共に小古呂の家に着いた井戸は、妻に夫を説得する意思がないと見るや、安直を叩きのめして拳銃を奪い、そのまま小古呂の妻と息子(近藤)を人質にとって家に立てこもる。

 被害者が加害者に変わってしまう仕掛けも面白いが、ここで描かれるのはやはり「暴力」に関しての諸々の事柄だろう。
拳銃を手にしてから、徐々にエスカレートしていく井戸の暴力と支配欲が、これでもかというくらいに描かれる。そして、警察が繋いだ直通電話の向こうにいる「どもり」の小古呂の暴力もまた、まるであわせ鏡のようにエスカレートしていく様を観客は想像することができる。これが、この芝居が「暴力の連鎖を描いた作品」として、しばしば9.11などと絡めて語られる所以であろう。

 だが、野田本人はそんな見られ方が不本意なのか、パンフレットの冒頭に「小道具礼賛」という文章を載せている。曰く、
「この芝居で、人々が暴力を語る時、それは「暴力」そのものではなく「鉛筆の音」を意味している。芝居の世界では、そうした小道具の使い方を「見立て」と呼ぶ。私は近頃ますますもって、「見立て」こそが演劇の根源的な力だと思うようになってきた。(中略)私の小道具を礼賛する、その究極の心には演劇への礼賛がある。小道具礼賛は演劇礼賛につながる。」
実際の芝居を見ていない人には分かりにくいが、この芝居では装置は最小限に抑えられ、小道具が大活躍する。文中にある「鉛筆の音」は、井戸が小古呂の子供の指を折ったり切断したりする描写で、指に見立てた鉛筆を折ることを表している。確かに、あれは効果音でそれらしい音を流すよりは余程効果的で、その行為の残虐さが浮き彫りになる。こうした仕掛けは、他にも、だんだん高鳴っていく電話の音や、井戸の周りを飛び回る蜂(=THE BEE)の羽音等にも使われる。演劇的な効果を最大限に引き出す、野田らしい舞台作りであると思う。
また、初演ではなかったと思うが、離れた場所で電話している筈の人間同士が、掴み合いになったりのしかかられたりと、同じ空間にいるかのように演じていたのも印象に残った。これも、舞台ならではの表現方法である。

 こうした舞台で、役者もまた「見立て」られ、何役も兼ねる。宮沢や池田がアンサンブル的な役を演じるのを見られるのは、おそらくこの舞台だけではないだろうか。
そんな中、「本役」では、やはり小古呂の妻役の宮沢が目をひいた。初演時は秋本菜津子がやった役だが、今回の宮沢もいい。ENGLISH Versionでは野田が「女役」をやっていて、こちらは歌舞伎チックな「見立て」になっていたが、女性の宮沢がやると本人も言っているとおり「生」っぽさが増す。ストリッパーという設定なのである程度のセクシーさと、幼い子供の母親との二つの顔を持っていないといけないが、これも宮沢にとってはうってつけの設定だった。子供を守る時は必死の形相、そして、井戸を相手にする時のあだっぽさ。どちらもぴったりで、まさに宮沢のために書かれた役といってもいいくらいに仕上がっていた。
また、単純に狭い空間で見る宮沢は新鮮であった。
小古呂と小古呂の息子の役の近藤は、元々ダンサーだけあって、台詞のない部分の佇まいがよかった。特に後半、小古呂の息子になった時、一瞬にして役が変わったりしても全く違和感がないのは凄い。帽子一つで小学生を表現できてしまうのである。
池田は、野田が「見るからに嫌な奴」だからキャスティングしたというだけあって、特に百百山は癖の強い役作り。殆どが壁の向こうからの演技なのにもかかわらず、存在感がある。
そして、井戸役の野田は、初演と同じ役柄だが、今回は少しアプローチが変わった気がする。自分のしていることに半ば恐れながら、途中から陶酔を通り越して冷徹にすらなっていく井戸を、より繊細に「生」っぽく演じている。途中に出てくる「今、俺は人生で一番自分をコントロールできている」という台詞が恐ろしく聞こえる。
途中に2度ほど出てくる「狂気のダンス」(?)も鬼気迫るものがある。
なお、この時にかかる曲がラストにもかかるのだが、曲のタイトルは何だろうか。初演から気になっている。

 ENGLISH Versionとは演出も装置も異なる。奥秀太郎監督の映像はJAPANESE Versionのみに入る。
ENGLISH Versionはどちらかというと「様式的」に、JAPANESE Versionは「生」っぽく、という感じであった。
ちなみに、原作は筒井康隆の小説「毟り合い」だが、劇中に登場しタイトルにもなっている「蜂」は原作にはない。様々な解釈ができると野田もいっているが、僕にはそれが「人を暴力へと駆り立てる不快なもの・制御不能のもの」の象徴のように感じられた。
ENGLISH Versionはニューヨーク、ロンドン、香港で上演されたが、現地での評判も上々だったようだ。観客の生の感想が聞いてみたいところではある。
「頭でっかち」にならず、演劇的な手法を際立たせながら、観客の心に波風を立たせるような舞台。野田演劇の神髄を見る思いであった。
後味のいい作品ではないが、それが投げかける波紋の大きさの分だけ、ある種の「希望」がある。偽物の「希望」を歌い上げる芝居よりは余程誠実な態度ではないだろうか。

 9月には、リニューアルした東京芸術劇場で本公演が控えている。こちらも今から楽しみである。