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バイソンの足

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バイソンの足(零式)

~観劇日・劇場

2003年6月29日 新生館スタジオ

~作・演出・出演

  • 作・演出/新井哲
  • 出演/加藤めぐみ・渡部陽介(フラジャイル)・イッキ・鈴木義君・川端健志・林成彦・今里真(サッカリンサーカス)・西川史惠・安川愛有子・965
    フラメンコ演奏/ALMA(Hide Yumi Kouichi)

感想

ハートハートハートハートハート

バイソンの足零式の芝居には独特の雰囲気がある。一編の詩のようでもあり、短編映画のようでもある。前作「セ氏の妖女」の脚本は平成14年度文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作を受賞した。今回は、1989年に綾瀬で起きた女子大生コンクリート詰め殺人事件を題材にしたという触れ込みだった。ドキュメンタリー風作品になるかと思いきや、そこは零式、見た目には直接のモチーフが何なのか分からない程に実際の事件の痕跡はない。
 舞台上には僅かな砂。そしてドラム缶。そのドラム缶からは、一本の女性の足が突き出している。そのドラム缶を押しながら海を目指している一人の男(渡辺)。彼は山にある自分の家に一人の娘を残している。娘のために海を探していると言いながらも、実は鞄の中に重い石をいくつも忍ばせていた。彼は海を目指す。が、正確な場所は分からず、辿り着くことができない。そんな彼は、ジョギング中の一人の女(加藤)と出会う。そのドラム缶が出現してから、その街にはジョギングが流行っているのだ。人々はそのドラム缶にタッチして引き返す。その中には、女に惚れているもう一人の男(イッキ)もいた。女と親しくなった男に嫉妬するもう一人の男。女はドラム缶の中に入り、男と共に海を目指す。そして、まもなくその街を大津波が襲おうとしていた。
 登場人物は一貫しているものの、追えるような明確なストーリーは見えにくい。それぞれのシーンが緩やかに結びついており、分かりやすい起承転結はない。登場人物もきわめて抽象的だ。こうした劇構造から、慣れない客にとっては最初から置いてけぼりを食ってしまう可能性も否定できない。しかし、僕は結構引き込まれた。主人公の男と女の情動の動きが、ストーリーの展開によってではなく、シーンごとの会話の中で見えてくるようになっている。それは論理ではなく、もっと根元的な何かだという感じがする。最後に津波に飲み込まれた二人が、ドラム缶を筏代わりにして二人の新天地となる島(元の山の頂)に向かって海を進む光景に不思議と納得させられるのはそういう理由からではないかと思う。
 零式の看板・加藤はこうした新井戯曲の文体をよく体現している。切なげな高く細い声と低く力強い声を使い分けて、女を直向きに演じる姿には好感が持てた。何よりも、新井の台詞の持つ情感を的確に伝え、客にインパクトを与えているのが凄い。また、相手役の渡辺は抑制的な演技が効果的だった。
 この劇団に関しては、僕はいわゆる「分析」や「批評」ができない。そういう言葉とは別の次元にこの作品はあるように思う。一人の女が死んだ。それもコンクリートに詰められるという形で。このどうしようもなく不条理な出来事から感じた「痛み」や「違和感」を、新井は独特の感性で受け止め、不思議な手ざわりで表現したのだろうと推察される。これがどこまで当たっているかは分からないが、途中で挿入されるフラメンコの生演奏に乗せて黒服の人物達がドラム缶の周りに赤い花を撒いていくシーンなどは、ある種の切実感を感じさせもする。彼が不条理劇の巨匠・別役実の指導を受けて、また一定の評価もされているという事実にも頷ける。ある種の「静かな演劇」にも近い感覚だが、それとも違う気がする。これは「シリアスなナンセンス」な世界なのではないか。例えばドラム缶からはみ出した女の足がどう見てもマネキンにしか見えなかったり、それをまるで蓋のように開閉して女が出入りしたりする手法は、新井の持つ「ナンセンス」な手つきをよく表している。考えようによっては、あの事件の持つ「ナンセンス」で不条理な側面を表現するのに、これ程適切な手法はない。ラスト近くになると蛇足と思われるようなシーンもあり、やや冗長に感じられもするのだが、それも僕達にとって分かりやすい文脈に事件を回収しようとする「クライマックス」を拒絶する、ある種の戦略なのではと思わせる。
 熱狂もカタルシスもないが、密かにはまってしまいそうな言葉に表せない魅力がこの劇団の舞台にはある。コントのような芝居やファンタジー系・癒し系の芝居が隆盛を極める中、地味ではあっても貴重な存在である。時代が不条理さを増していく中、今後この「零式的不条理劇」がどう進化していくのか、楽しみである。