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障子の国のティンカーベル

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障子の国のティンカーベル(STUDI0コクーンプロジェクト)

~観劇日・劇場

2002年11月13日 ベニサンスタジオ

~作・演出・出演

  • 作/野田秀樹
  • 演出/井上尊晶
  • 出演/鶴田真由

感想

ハートハートハートハートハート

これは鶴田真由の1人芝居である。僕は別に彼女のファンではなく、野田秀樹の脚本に興味があって見に行ったのだった。因みに、場所はベニサンスタジオだったのだが、僕はこの劇場自体初めてだった。以前は倉庫だったところを改修しただけあって、タッパがあって広さも手頃だ。
 舞台奥に台所があり、その前にある真ん中に穴が開いているまるで石庭の砂利を思わせる文様の白い布で覆われた空間が、実際に演技が行われる場所だ。
 主人公はティンカーベル。そう、あの「ピーターパン」に登場するあの妖精だ。彼女と、ひょんなことから障子の国=日本にやってきたピーターパンの日本人形との恋物語を、時にティンクがピーターを演じながら語っていく。「障子の国」というイメージから、舞台の背景で大きな障子を開閉し、影絵の手法を使ったり、舞台転換の効果を持たせたりする演出はうまい。また舞台に敷かれた布も、時に持ち上げられて妖精の国=南半球やそこからの冒険を表現して、限られた空間の中で客の想像力を喚起するのに一役買っていた。途中でピーターパンをピノキオのような木の操り人形にして、それをティンクに操らせながらストーリーを進めるやり方も面白かった。
 野田さんの言葉の力もあって、結構無理なく妖精の世界に入り込めるのだが、そうなるとネックになるのはやはり鶴田の演技力である。正直言って、彼女には荷が重すぎる役だと感じた。確かに少年/少女という中性的な存在という面では彼女は決してミスキャストとは思わないが、スピード感を持って畳みかけるような野田の台詞にアップアップなのがありありと分かる。相手役のいない舞台で一人で台詞でイメージを作り出していかなければならないのに、台詞に振り回されているという印象だ。映像を中心にしてきた彼女は、きちんと台詞を言うという基本的な技術が舞台と映像では違うという部分を乗り越えられていないのだろう。台詞を言い直すことも一度や二度ではなかったし、最後に歌の出だしを間違えて歌い直したりするのはいただけない。また、この役はコメディエンヌとしての資質も要求されるのだが、所謂お嬢様的な役が多い鶴田ではどうしても固くなる。それもイメージを広げられない要因の一つになっているようだ。
 野田さんが若い頃に数日で殴り書いたという触れ込み通り、作品自体には夢の遊民社時代の野田ワールドのエッセンスが詰まったような懐かしさとパワーがあった。妖精の国の真剣な(妖精の国では「冗談」という意味)裁判の結果、人でなしの恋をした罪で死刑を宣告されたピーターとティンクが、長い逃避行の末にお互いをどじょっこに(妖精の国では「一番」という意味)大切な存在、かつて引き裂かれた自分の失った半分だと認め合う。そしてその恋を永遠にするために、ピーターは自分の体を切り刻んでティンクに食べられることを望む。そしてピーターを食べたティンクは、この障子の国でピーターを忘れないために笑って暮らすことを選ぶというラストシーンは甘くて切ない。ピアノの生演奏で何回か歌われる挿入歌が、このラストでも効果を上げている。
 全体として、楽しくて繊細な初期野田ワールドのエッセンスを楽しめた舞台だったが、やはり役者の面では悔いたりなさが残る。大竹しのぶや毬谷友子クラス力を持った若手の役者がティンカーベルをやったら、もっといろいろなことが伝わっただろう。美術や演出方法にいろいろな工夫があっただけに、それとしっかり噛み合って、その効果を十二分に引き出せる役者だったらと惜しまれる。特に一人芝居ということもあったが、舞台はやはり役者が命だということを改めて認識した。