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ピルグリム

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ピルグリム(新国立劇場主催/シリーズ「現在へ、日本の劇」1)

~観劇日・劇場

2003年1月18日 新国立劇場

~作・演出・出演

  • 作・演出/鴻上尚史
  • 出演/市川右近・山本耕史・富田靖子・佐藤正宏・山下裕子・天宮良・宮崎優子・高岡蒼佑・三国由奈・大森博 他

感想

ハートハートハートハートハート

ピルグリムこの芝居の初演を僕はスペースゼロで見た。89年のことである。あの当時第三舞台という劇団は「小劇場ブーム」の最先端、「時代の表層を走る」演劇といわれ、主宰の鴻上さんも「トレンドウォッチャー」(この言葉自体が死語だが)扱いされていたものだ。いわば流行ものと見られていたわけだが、この作品自体は小劇場ブームも一段落して、劇団としても安定期に入ったと思われた時期のものである。伝言ダイヤルなど当時流行ったアイテムを使っていたので、作品としては「鮮度が命」という感覚で捉えられていたと思う。それが、10年以上経ってからの再演である。それも新国立劇場である。この事態をどう考えればいいのか。
 ストーリーは初演時を踏襲している。連載を打ち切られた流行作家・六本木(市川)は、新米編集者の朝霧(富田)や同居しているゲイの自称書生・直太郎(山本)に説得されて、最後の勝負である長編小説を書き始めた。それは、マッドサイエンティスト(天宮)と彼の最高傑作品・タンジェリンドリーム(宮崎)、そして自称お姫様・ウララ(山下)と奴隷族のきょーへい(高岡)、そしてハラハラ(佐藤)が、「オアシス」という場所を求めて旅をする物語だった。一方、現実の六本木は、かつて主宰していた自給自足のユートピア「エンジェルファミリー」の浦川(山下・二役)からの借金の取り立てに追われ、仲間を捨てた罪悪感に苦しめられていた。そんな時、執筆中の彼の前に謎の黒マントの男(大森)が現れ、物語の世界へ六本木を誘う。
 主人公達とともに幾多の困難を乗り越え、ついにオアシスへと辿り着いた六本木。しかし、そこで彼が見たものは「オアシス」という名のユートピアの実態、そして学生時代の六本木に捨てられた一人の女性・鈴木恵子(宮崎・二役)の思いだった。そして、彼はユートピアの成立のための「生け贄」にされてしまう…。
 伝言ダイアルの話がそっくり「分散型コンピューティング」に差し替えられるなどの変更はあったものの、殆ど上演当時のままの設定で、それでいて古さなど感じられなかった。演出面で変わったのは、第三舞台時代にはない「歌」の多用と、それに伴うコロスによるミュージカル的なシーンの登場である。これは前回の演出作「幽霊はここにいる」から流れだ。初演時よりぐっと台詞のスピードを落としていることからも、観客の変化に対応しつつ、確実にこの作品の核の部分を伝えようという鴻上の戦略が見える。
 キャストを初演時と比べて見てしまうのは世の常というもの。六本木は、市川が歌舞伎出身というのが時々顔を出してしまった分、初演の小須田康人に軍配が上がる。朝霧の富田は見事という他はなく、初演時の長野里見の十八番だったペンギンの被り物も違和感なくこなした。直太郎は初演時の勝村政信がやはりうまく、山本も雰囲気は出しているがもう一歩だった(勿論、合格ラインには達しているが)。他のキャストで目立ったところは黒マントの大森。初演時の大高洋夫もいい味を出していたのが、大森はさすがの一言。きめるところはきめ、ぼけるところはしっかりぼけて笑いをとる。実態のない役だけに難しいと思うが、同時にポイントになる大事な役でもある。前の大高の印象を完全に消す怪演だったいっていい。 他のキャストは、唯一の「留任」山下をはじめなかなかバランスがよく、初演とはまた違った奥行きをこの芝居に与えていた。
 今回の新国立劇場への登場は、鴻上の芝居が野田と同様「日本演劇の新しいスタンダード」になったことを意味する。流行のタームを扱うことで同時代生がクローズアップされていた鴻上の舞台だが、「ピルグリム」で取り上げられたユートピア論や共同体論等、その作品には普遍性もある。チラシにも使われていた台詞「さて、問題。オアシスはどこでしょう?」は、鴻上がずっと追いかけているテーマの一つでもある。改めてその世界の広がりと深さを実感するとともに、今後その芝居がどこに向かっていくのか目が離せない。
 「LIVE IS LIFE」が大音響で流れる中、劇場の壁を全て鏡が覆い、舞台には鏡の森が出現する。その中を黒マントが疾走していくラストシーンは、強烈な印象を残した。