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囚われた街

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C2-Reading「囚われた街」

~観劇日・劇場

2009年1月25日 ギャラリー La Grotte

~作・演出・出演

  • 演出・構成/やすを(改)
  • 著者/にわかとも
  • 朗読/松山コウ(Creative Cnfiguration)・窪田智美・ふるやかずき・(宮尾征典)・(キクチサチ)
  • 音楽:演奏・作曲/野田裕宇

感想

ハートハートハートハートハート

C2-Reading「囚われた街」最近、というかだいぶ前から「リーディング」という公演形態が広がってきた。
 有名どころでは「ラブレターズ」や、毎年8月に全国各地で行われる「この子たちの夏」といったものがある。
 しかし、僕はこれまでリーディングを体験したことがない。
 演劇が立ち上がる瞬間を見せる(聞かせる?)ようなこの形態に、あまり馴染みがなかったのである。リーディングならではの良さ、というものに出会っていなかったのかも知れない。

 今回は、2007年のFBIの舞台で活躍した役者の窪田が、「にわかとも」の名で行った創作活動のお披露目といった感じであり、こういう機会にリーディングを体験しておこうと思って足を運んだ。
 自主制作映画「i」で垣間見えた彼女の創作の世界を、今度は言葉で体験するわけである。

 場所はギャラリーといってもとても狭く、ただ、打ちっ放しのコンクリートの壁や床、そして階段があってその上が踊り場になっている構造はなかなか面白い。
 演者はこの階段に立ち、踊り場の上では音楽担当の野田が演奏をするという仕掛けだ。
 この階段が、客席となっているフロアと平行にかなり高い位置にあるので、演者の顔が見えない。勿論、演者は朗読用の本を持っているのだから、見えなくても差し支えはないのだが、ちょっと残念な気もした。
 反面、声が上から降ってくるような感覚は、聞き手の想像力に微妙な変化を及ぼすだろう。それは面白いことである。

 まずは「にわかとも詩集」からスタート。
 たぶんたくさん書きためた作品の中から選りすぐったと思われる詩7作が朗読された。
 タイトルは、「灰色の手紙」「振動」「玄~しずか~」「『白』」「冬」「有色透明」「願う」。
 所謂「少女詩集」的なものとは別の世界がそこにはあった。
 にわかの詩には「色」「音」「震え」「声」といった、語幹に関する語彙が多用されているという印象を持った。いつも感覚を研ぎ澄まし、敏感すぎるくらいに外界や自分の内側に響く音、吹き渡る風、目に入る色等々を聞き分け、嗅ぎ分け、見分け、それを言葉として定着させているのだろう。
 ただ、7作を順に3人で読んでいくのだが、どれがタイトルでどこからが本文なのか分かりにくい部分もあった。一つの詩を2人が読んでいるのかな、と思ってしまう部分もあった。
 このあたりは、詩と詩の間をすこしたっぷり目にとるとか、音楽を短く奏でるとか、そういった工夫があってもよかったかも知れない。
 あまりやりすぎるとくどくなるので、そのへんは難しいところだ。

 小説「囚われた街」は、星新一のショートショートを思わせる、一種の寓話である。
色のない街の息苦しさに耐えかねた1人の男(たぶん青年)が、街を逃げ出す。そして、へとへとになってある村にたどり着き、1人の女の子と出会う。
女の子はその村から出たことがなく、男の話を聞いて、男が回復したら一緒にその街に行きたいという。男は一緒に行く約束をする。
2人は女の子が男に渡したお揃いのペンダントをして、その時を待つ。
しかし、ある時、女の子は男の持ち物の中から1枚の神を発見する。
そこには、その村はこの世界から消去される、と書かれていた。驚き、自分を欺いたのかと男に迫る女の子。だが、それはあの街の仕掛けた「罠」だと分かる。その説明を、女の子は信じる。
ある日、体力を回復した男は、女の子に渡すプレゼントを探しに家を出て、村を歩き回った。
そうとも知らない女の子は、自分が置いて行かれたと思い込み、必死に男を探す。しかし女の子は、その男から出てきた「影」達に、建物の間の狭く真っ暗な隙間に追い込まれる。
一方、家に帰った男は、女の子がいないので、必死に村中を探す。そして、女の子が追い込まれた隙間の空間にたどり着く。
そこで男が見たものは…

僕はもっと具体的な、というか写実的な話なのかと勝手に想像していたので、かなり意外な気がした。
あの「i」で流れた主人公の女性の地のような生々しさと、この物語は対極にある。

 男や女の子の容姿に関する具体的な記述は殆どなく、場所も時代も具体的に設定されていない。
しかしそれでも、男と女の子の間の関係性はちゃんと伝わってきた。
色のない街に囚われていた男が「あたたかさ」を感じ取り、再生していく過程は、街にも人間にも「色」や「温度」が必要なのだと、聞いている者に思い出させてくれる。
先に書いた「にわかとも詩集」の作品とも通じるものがある。

しかし、この物語の落ちは不気味なものである。
男から影が出てくるという描写、そして村を探し回る男の眼前に映像がいくつも流れるという不思議な世界。
そして何より、絆を結び、約束をし、若者の生きる糧ともなっていたその女の子の「名前」が分からなかったということ。
これらが、その悲劇的、かつ不条理なラストを予見させていた。

男が見つけたもの、それは、女の子の遺体とおぼしきものとペンダントだった。
彼は泣いて、泣いて、涙も涸れ果てた。
そして、彼は街に戻っていた。
と、ここまで全てが、脱走防止用の「プログラム」だったのだ。

 つまり、彼は最初から一度も街を出ていなかったのである。
人々が同じ方向に向かって行進を続ける「色のない街」。誰もそこから出られない。
とても乱暴に言ってしまえば、これは現代文明批判のアレゴリーである。
そして、ここからは僕の勝手な解釈だが、この「女の子」とは、幻想の幸せを体験させて人々から毒を抜いていく「メディア」、例えばお笑い番組、ドラマ、ミュージカル、ハリウッド映画、そういった偽りの、というか擬似的な「幸福感」を与えるものの象徴なのではないか。
何故なら、「女の子」は、プログラムによって、つまり「街」によって用意された映像みたいなものだったからである。
皮肉にも、この「女の子」の存在が、「街」を支えている。
無垢な「女の子」に漸く救いを見いだした男の悲劇が、ここから立ち現れてくる。
そして、ラストになっても、その「プログラム」の起動(「作動」という言葉にした方がいいのでは?)の音が聞こえる。
つまりは、男の脱走はその街のありふれた光景の一つに過ぎないのだ。
勿論、「男」は僕達の鏡像である。

なかなか見事なストーリー展開で、無駄な部分も殆どなく、聞き手(読者)の想像力に託すべき所は託すというストイックな文体に好感が持てた。
ただ、僕なら最後の「管理者」と「監督者」(だったかな?)の会話は入れない。ここに人間の姿を見せないことで、街自体が全て機械的に、そして自律的に動いているということを、より強く印象付けることができると思うからだ。
そのへんは感覚の違いというか、感じ方の相違なので、別ににわかの文が悪いわけではない。

演者(朗読者)達は、みんなにわかの文体をうまく表現していた。
演技と違って動けない分、言葉の言い方、息遣いのみで世界を描き出さなければならないのは難しいと思うが、3人の息が合っていて、きちんと一つの世界観を見せてくれた。
音は、ピアノとギター、そして「囚われた街」では最初と最後にトランペットが入った。これも朗読を邪魔しない程度にうまく抑えられ、朗読と音楽とのバランスはとてもよかった。

最初に書いたように、リーディングは言葉が「演劇」になって立体化する瞬間を見せるものだと思う。
その「立体化」の作業を、聞き手の頭の中でいかに行わせるかが、リーディングの勝負所であろう。
聞いた人の数だけ「男」の姿はあっただろうし、聞いた人の数だけ「街」の形があっただろう。
また、そうなればリーディングとしては成功ということになる。
その意味では、今回は間違いなく成功だったと思う。

僕としては、にわかこと窪田が、演技をし、役作りをする際にも、こうして常に五感を研ぎ澄ませながら作業をしている様子が想像され、表現者としての彼女の作法が少し分かった気がする。

C2-Readingは3月にも行われる。
一方窪田は、2月にも本番を控える。
どちらも楽しみである。
そしてまた、にわかともの作品に触れたいものだ。

なお、僕が見た回は千秋楽の最終回でこのメンバーだったが、他にも読み手はいて、回によって組み合わせが違っていたようである。
別の役者の組み合わせで聞いたら、また違った印象になった出あろうと思われる。
そういう「物好き」のために、割引の「回数券」か何か作っても面白かったかも知れない。