Favorite Banana Indians

Mail

Novel

ホーム>BOOK>小説「坂の上の春」

「坂の上の春」

いつの間にか、少女は懐かしい坂の下に立っていた。
 どこからどうやって歩いてきたのか忘れてしまったが、とにかく目指していたのはその坂だった。
 坂の下の道を曲がって少し行った所に、少女の小さな家があった。
 周りの家はみな二階屋なのに、少女の家だけは平屋建てで、目の前には空き地があった。
 それでも小さな花がたくさん植わっている狭い庭を、少女はとても気に入っていた。
 その家から坂の下までは、少女の足でも5分とかからない。
 ただ、その坂はとても急だったので、一番上に何があるのか、下の方からは見通せなかった。

 少女はいつもこの坂を上ろうと思って、その下まで来て足を止めた。

「あの坂の上には何があるの?」
 少女は母親にそう尋ねたことがある。
 すると母親は優しい微笑みを浮かべながら、
「あの坂の上にはね、『春』があるんだよ。」
と答えた。
「へえ。じゃあ、春さんは坂の上から来るんだ。」
「そうよ。あの坂の上で、冬の間中ずっと待っていて、もうみんなが寒さに我慢できなくなった頃を見計らって、あの坂を下りてくるの。」
「そうだったの。」
「そして、花が一通り咲いて、緑の出番が来るとね、春さんはまた坂の上に帰って行くのよ。そして、1年間お休みしているの。」
「じゃあ、夏も、秋も、冬も、あの坂の上から来るの?」
「ううん、違うわ。坂の上から来るのは、春だけ。」
「ねえ、坂の上の春を見に行こうよ。」
「そうね。春さんが『おいで、おいで』って言ったら行こうね。」
「約束だよ、一緒に行こうね。」
「約束ね。」
 そう言って、少女と母親は小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った!」
 2人の小指は離れた。

 あれから何日経ったのだろう。
 お母さんはお使いに行ったきり、帰ってこない。
 もしかすると、一人で春さんのところに行っちゃったのかもしれない。私のことを置いて。
「約束、破ったのかな。」
 少女は、そう独りごちした。
「ううん、そんな筈ない。私のお母さんだもん。」
 少女は母親を待つことにした。
 でも、家に帰ってしまったら、何だかこの坂自体がなくなってしまうような気がした。
 その前に、坂の上から春がいなくなってしまうようにも思われた。
「先に行ってようかな…」
 少女は、坂を上り始めた。


 暫くして、少女は自分が荷物を持っていることに気付いた。
「何だろう、これ。」
 中を開けると、着替えやら歯ブラシやら、見たことのないカードまで入っている。
 そのカードには、自分の名前が書かれていた。
「そっか、昨日まで合宿だったんだ。」
 それにしては、自分の制服がない。
「そりゃそうか、合宿だったんだもんね。」
 彼女はバレー部に所属していた。
 セッターとしての彼女の実力は、クラブの中では中の上くらい。チームがピンチになると、決まってベンチに引っ込められた。彼女にはそれが不満だった。
「私だって、春江くらいの実力があるのに。」
 いつも自分の代わりに指名される部員の名前と顔を思い浮かべながら、彼女は思った。
 春江とのライバル関係は部活だけではなかった。
 春江は恋のライバルでもあったのだ。
 相手はバスケ部の栗原君。エースで背が高くて体は引き締まっていて、おまけに甘いマスク。
 ライバルは実は春江だけではない。
 同じ学校の女子生徒全員がライバルみたいなものだった。
 でも、彼女は、自分の恋が叶うと信じていた。
 バスケ部の応援に行ったとき、「栗原くーん!」と声援を送ったら、一度だけ彼女の報を見て微笑んでくれたのだ。
 あれはほかの誰でもない、私に対しての微笑みだ。
 彼女はそう信じて疑わなかった。
 彼女は坂を上り始めた。
 でも、荷物が重いせいか、なかなか足が進まない。
「こんなきつい坂だったかな。」
 彼女は思った。
 でも頑張って一番上まで上らなければならない。
 坂の上では、栗原君がきっと待っている。
 合宿に行く前の日、彼女は密かにラブレターをしたため、栗原君の下駄箱に入れた。
 そこに、
「もしも私の気持ちに答えてくれるなら、○月×日、あの坂の上で待っていて下さい。」
と書いておいたのだ。
 坂の上には私の「春」がある。きっとある。
 そう思いながら、重い足を引きずり引きずり、彼女は坂を上っていった。


 坂の途中まできたとき、彼女はフィアンセとの約束を思い出した。
 どうしてこの坂を上っていたのか、それまで思い出せずにいたのだ。
「そっか、そっか、この坂の途中のレストランで待ち合わせたんだっけ。」
 フィアンセと彼女は、最初にこの坂の途中のレストランで出会った。
「春の風」という名のレストランで、彼女はウェイトレスのバイトをしていた。
 そこにやってきたのが今のフィアンセだ。
 彼は最初、確かスパゲッティとコーヒーを注文した。彼からオーダーをとったのは彼女だった。
 しかし、彼女はきわめておっちょこちょいだった。彼女はコーヒーと言われたにもかかわらず、レモンティを持って行ってしまったのだ。しかも、そのことには全く気付いていなかった。
 彼は何も言わずにスパゲティを食べ、レモンティを飲んだ。
 そして、会計の時、レジに立った彼女にこう言ったのだった。
「次は、ここのコーヒーを飲みに来ますよ。」
 彼女は初めて間違いに気付き、顔を真っ赤にして、
「すみません。」
と蚊の泣くような声で言った。
 彼は微笑んで、そして店を出て行った。
 その微笑みは、父親の微笑みにも似ていた。
 そして彼は、1週間後、本当に店にやってきた。そして、同じものを注文した。
 彼女は、今度は間違えずにスパゲティとコーヒーを持って行った。
 彼は笑って、
「今度こそ、この店のコーヒーが飲めるな。」
と言った。
 彼女も思わず笑ってしまった。
 彼はその後も、しばしばその店にやってきた。
 頼むものは大抵同じだった。きっと相当気に入っていたのだろう。
 店も、料理も、そして、彼女のことも。

 それからしばらく経った秋の日、彼女は美術館にフェルメール展を見に行った。
 美術館を出て、駅に向かって歩いているときだった。
「あの、すみません。」
と後ろから声をかけられた。
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには彼が立っていた。
「あ、お客様。」
 彼女は思わずそう言ってしまった。
「ここでは客じゃないですよ。」
 彼は笑顔を見せながら言った。
「あなたもフェルメールを?」
「ええ。」
「そうでしたか。僕もさっき見てきたところなんです。暫くぶりでここまで出てきたんで、ちょっと公園を散歩してたんですよ。そうしたら、あなたが歩いてるじゃありませんか。」
「よく分かりましたね。」
「それはもう、あなたの後ろ姿も、正面からの姿も、横顔も、何度も拝見していますからね。」
「よくいらっしゃいますものね。余程お気に入りなんですか。」
「ええ、私はあの店がとても気に入っているんです。何だか、自分の家のようでもあり、全く知らない外つ国のようでもあり。」
「そうなんですか。実は私、あの坂の下の道沿いに住んでるんですよ。」
「そうなんですか。じゃあ、店からは近いですね。」
「ええ、歩いて5分とかかりません。ちょっとあの坂を上るのがきついですが。」
「どうですか、こんな所で立ち話もあれでしょうから、もしお時間があるのなら、どこか店に入りませんか。」
「そうですね。そうしましょう。」
 彼女は自然に答えた。
 それが彼女と彼との初デートになった。

 そして今日が何回目かの回目の結婚記念日。
 結婚記念日には必ず2人が出会ったあのレストランで食事をすることにしていたのだ。
 あの人はどうしたのだろう。ことによると、もう先に店に入って待っているのかもしれない。
 彼女は急いだ。
 しかし、意に反して彼女の足はなかなか前に進んではくれなかった。
 何だか坂が前より長くなった気がする。
 登れども登れども、なかなか坂の中程にも達しないのだ。
「今日は足が疲れてるみたい。」
 彼女はそう思った。
 でも、何としてもあの坂の上に辿り着かなければならない。そう彼女は思った。


「あの坂の上にはね、『春』があるんだよ。」
「本当?じゃあ、約束だよ。一緒に行こうね。」
 息子とそう約束したのだから、どうしても行かなくては、と彼女は思った。
 自分を坂の上に連れて行ってくれる筈だった母は、いつか家から一歩も出られなくなり、やがて床につくようになった。
 自分を抱き上げてくれて、まるで坂の上に立った
 みたいに空の近くまで「高い、高い」をしてくれた優しい父は、やがて家に帰ってこなくなった。
 そんな悲しい思いを息子にはさせたくない。
 だから今日、あの子と一緒に坂の上に行くんだ。彼女はそう決めていた。
 坂の上にある春を見つけに、自分の可愛い子と。
 今、あのこと一緒にいてやれるのは自分しかいない。
 あの子の父親は、数年前に亡くなった。突然のことだった。
 あの子には、まだ本当のことを話してはいない。
「お父さんは、遠くへお出かけしているんだよ。」
 そう言っている。

 坂道はまだまだ続いていた。真っ直ぐに、まるで空へ向かう滑走路のようにそれは続いていた。

 父親がいないことで、息子はいじめを受けているようだった。
 よく泣かされて帰ってきた。でも、息子は本当の訳を言おうとはしなかった。そこがまたいじらしかった。
 そんなあの子の気持ちを和らげるためにも、あの坂の上の景色を見せてやりたい。
 私と母親が見られなかったあの景色を。
 そして言ってやるんだ。
「ほら、ご覧。春さんはみんなに笑いかけているよ。気持ちがいいだろう。春さんがね、心の中が冬みたいに寒い人に向かって、暖かい風を送ってくれているからだよ。ご覧、こんなにたくさんの花、そしてほら、蝶々も飛んでる。雲雀が鳴いてる。みんな、幸せを運んできた春さんの仲間なんだよ。あんたもね、同じように春さんの仲間なんだよ。泣いてないで涙をお拭き。あんたはね、きっとたくさんの人の心の中に、春さんを呼んでくることができる人になれるよ。」


 あと一息だ。少女は思った。
 坂は漸く終わりかけていた。今まできつかった傾斜がだんだん緩くなり、それとともに目の前に少しずつ、見たこともない景色が見え始めていた。
「春だ。」
 思わず少女は叫んだ。
 坂の向こうから光が射し始めた。
 その光の中から、ずっと会いたかった母親と、その側に佇む父親の姿が見えてきた。
「お母さん!お父さん!」
 少女は大声で呼びかけた。
「待っていたよ。」
 父親が優しく答えた。
「さあ、帰りましょう。」
 母親が手を差し伸べてきた。
「もう少し春さんと一緒にいようよ。」
 少女はだだをこねた。
「勿論よ。これからはずっと、一緒に春の中にいるのよ。」
「お家には帰らないの?」
 今まで登ってきた坂の方を振り返りながら、少女は不思議そうに訪ねた。
「この坂はね、一度登ったら二度と降りられないの。だからもう、お家には帰れないのよ。」
「そうなの?」
 言われたことの意味が分からずに、少女はぽかんとして言った。
「そうなんだ。ごめん、俺、ちゃんと思いを伝えられなくてさ。」
 何処かから声がした。
 声の方を振り返ると、そこには栗原君がいた。
「栗原君。」
「俺、ずっと待ってたんだ、この坂の上で。」
「そうだったんだ。ごめんね、私、勇気がなくて、いつも坂の途中で引き返していたの。」
「なんだ、そうだったのか。俺、てっきりふられたかと思ってさ。もしかして、俺にはこの坂の上の春が似合わないのかも、と思っちゃって。」
「ごめんね。待たせちゃって。」
「俺の方こそ、ずっと待っていられなくてごめん。もし待ってたら、もっと早く会えたのにな。」
「いろいろ話したいことがあるんだよ。栗原君とは。」
「俺もだ。でも、もう焦ることはない。俺達、こうしてここでちゃんと出会えたんだから。」
「でも、私家に帰らなきゃ。」
「その必要はないんだ。あいつは僕達がいなくてもちゃんと生きていける。もう帰る必要はないんだ。」
 別の方向から声がした。
 声の方を振り返ると、そこには彼女の夫がいた。
「あなた。」
 びっくりして彼女は夫の側へ駆け寄った。
「どうしてここに?」
「ここには、春があるからさ。」
 ああ、そういうことか、と彼女は思った。
「あいつに子供が生まれたそうだな。いつかあいつも家族を連れて、この坂の上の景色を見に来るときが来るさ。」
「ここに春があるからね。」
 彼女は言った。

 そして、彼女は目を瞑った。
 甘い花のにおい。
 桜の花びらの感触。
 吹き渡る柔らかい風。
 今、自分は春の中にいる。漸く坂の上に辿り着いたんだ。

「さあ、行きましょう。」
 母親の声が聞こえた。
 彼女は、とびきり素敵な笑顔で頷いた。


 通行人の119番で救急車がやってきたときには、彼女は坂の途中で倒れて、事切れていた。
 彼女は担架に乗せられ、救急車の中に入っていった。
 彼女を乗せた救急車は、彼女が倒れていた坂の途中から引き返し、サイレンを鳴らしながら坂を下っていった。


 病院に来た特別養護老人ホームの職員は、彼女は老人性認知症で、徘徊癖があった、と機械的な口調で語った。
 口癖は、「あの坂を登りたい」だったという。
 息子は彼女の亡骸を引き取りにも来なかった。


 施設を勝手に抜け出して徘徊した末に、心不全で死亡。
 これが、世間的に見た彼女の死の記述である。

 でも、本当は違う。

 彼女はただ、坂の上の春を見に出かけただけだったのだ。
 長い間ずっと、愛する人と見たいと思っていた、あの坂の上の春を見に。


inspired by 中島みゆき「傾斜」