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L∀ST Garden

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【public doc】「L∀ST Garden」

~観劇日・劇場

2009年2月1日 Gallery LE DECO 3F

~作・演出・出演

  • 脚本/加藤絹子
  • 演出/佐藤信也
  • 出演/山崎雄介(虚構の劇団)・笠原久未(KNOCKS)・中野裕理(DMF)・松岡大輔(PADETORE)・加藤芙実子(【public doc】)・山川ありそ(少年社中)
  • ヴァイオリン演奏/池田陽子

感想

ハートハートハートハートハート

last gardenまたもギャラリーでの観劇である。といっても、今回は芝居。しかも、短編映画とセットになっての芝居だった。
 舞台に先立つ短編映画は「L∀ST Garden~prolog~」と題されていた。
 池田のヴァイオリンの生演奏(と言っても、エレクトリックヴァイオリンなので、音的にいろんな仕掛けができる)にのせておくる、無声映画である。
 ここでは、後の劇中に登場する母親と娘の関係が描かれる。
 談笑しながら歩く、一見仲の良さそうな母子。娘は小さな花束を持って嬉しそうだ。
 しかし、画面が引きになると、母親が足を引きずっているのが分かる。はっとする娘。そして、転んでしまう。泣き出す娘。すると、母親が言う。
「さあ、涙をお拭き。お前はすぐに泣くから、涙の匂いがする。(中略)さあ、涙をお拭き。恥ずかしいから。」
 字幕なので、どんな口調なのかは分からない。
 そして、2人の家。今日は娘の誕生日だったのだ。母親の手作りのケーキには、3本の蝋燭が立てられている。側には、先ほどの花が花瓶に入って飾られている。
 部屋の壁には、たくさんの紙が貼られている。そこには、娘の「「嫌いな自分」が書かれている。(例えば、「すぐころぶところ」とか)
 娘は誕生日の歌を歌い、部屋の電気消して蝋燭の火を吹き消す。
 そして、再び電気を付けて振り返ったとき、娘が見たものは、ぐちゃぐちゃに壊されたケーキと、倒された花瓶、飛び散った花だった。
 娘は泣く。母親は先ほどの言葉を繰り返し、娘を抱く。
 その母親の手には、ケーキのクリームがべっとりと着いていた。
 そして、夥しい数の壁に貼られた言葉の中に、「お母さんがいなくなってほしい」と書かれた紙があった。
 そこで映画は終わる。

 20分の休憩の後、本編とも言うべき芝居が始まる。
狭いギャラリーの中心に柵で囲まれた空間があり、それを取り囲むように客席が設営されている。
そこは、ある精神病院の病棟の屋上という設定だ。
その病院に勤めるソーシャルワーカーの八津(山崎)は精神のバランスを崩していた。彼が担当していた坂本(加藤)という患者が、前日その屋上から飛び降り自殺をして死んでしまっていたからだ。
彼の交際相手で同僚の内田(笠原)は、必死に彼を励まそうとする。
八津は、「自分には羽がある」などと言う坂本を、大切に守らなければと思いながらも、一方では鬱陶しいと感じていた。
別の病棟の屋上には庭園があり、その手入れをしているのが花屋の花町(松岡)と稲森(山川)である。八津はその庭園にも寄って、リフレッシュしようとしていた。しかし、庭園の「花」について内田が語った言葉が頭を離れない。
ある時、病棟にアンナ(中野)という少女が紛れ込む。アンナは八津に「私と同じ匂いする」などと言う。そしてまた、自分には神様の声が聞こえると言い、八津にも聞こえているだろうと問う。
このアンナが、あの映画に登場した少女だ。アンナは嫌いな自分を紙に書いて燃やすために、ライターを貸してくれと内田に迫る。かつてそのことで自分の担当の患者を焼死させてしまった内田は拒むが、結局アンナの勢いに負けてライターを貸してしまう。
実はアンナは、この病院に入院している草間という女の娘だった。草間は自殺未遂を繰り返し、今や意識を失って植物状態となっている。
そして八津は、坂本が死ぬ前日の、坂本との会話を思い出す。坂本は羽を探していたのだが、それが病棟の脇の木に引っかかっているので、それを取ろうとしていたのだ。
いつしか八津は、まるでその時の遣り取りが、自分が患者で「羽を持っている」と思い込み、坂本というケースワーカーにそのことを話していたように感じられてくるのだった。
花町は病気を持っており、その進行が原因で庭園を去ることになる。
そして、八津はその木に引っかかっている羽を取らせたのは自分だったと、苦悩の中で告白する。
その後、病棟の一室から火の手が上がるところで、この物語は終わる。
実に繊細な戯曲だ。
作者の加山がパンフの「ごあいさつ」で

 この度の公演は、
『人は同時に二つ以上の心を持ちながら生きている』
ということを表現したいという気持ちから生まれたものです。
あらゆること、全部が正解で全部が間違い、
もがいて悩んで気持ち悪くて何が悪い、といった気持ちです。

と書いているように、登場人物の全てが、矛盾した内面のバランスを必死で取ろうとあがいているように見える。
八津は「世界の幸せは限られている。自分が誰かを幸せにすると、その分どこかで誰かが不幸になる。」と言ったり、内田が庭園の花のことを、「ああやって人工的に育てられて綺麗に咲いているけど、それは花たちにとって本当に幸せなのかしら。」と言ったりする。内田の台詞は、病棟に隔離され、治療を施される患者たちの状態に対する比喩でもある。そして同時に、「病院」という閉鎖された環境の中で正気を保たねばならない八津や内田達の比喩にもなっている。
また、坂本が「目に見えない羽」を持っているという考え方や、アンナの「自分の嫌いなことを書いて燃やすと、嫌いな自分がなくなる。」という思考は、閉塞感を抱えた人間の痛みを生々しく伝えていた。
そういった事象の一つ一つが、「全部が正解で全部が間違い」というわけである。
起伏の少ないストーリーではあるが、一つ一つの台詞が際だっていて、一言も聞き逃すまいという気にさせる。
そして一つ一つの台詞が、胸に突き刺さってくるような切実感と「痛み」を持っていた。

 八津の苦悩を、山崎はうまく表現していた。紀伊国屋で見せた劇団の主宰者という役柄とは一転、傷付きやすく、自分で自分を追い込んでいく人間味溢れる演技だった。小屋の大きさを意識した演技の見せ方だった。
その八津をサポートする内田も、明るさと厳しさ、辛さといういくつかの感情に翻弄される様子をよく表現していた。
もう1人のキーパーソンであるアンナ役の中野は、少女のようなルックスで、無垢な感じで痛い、または鋭い台詞を連発するそのギャップが効果的だった。だから、後半に出てくる、「私じゃお母さんの生きる意味にはなれなかったの?」というストレートな悲しみも伝わってくる。しかし、ここも敢えてその空疎な明るさで表現するのもありかな、と思った。
花屋の松岡は押さえた演技で出しゃばらず、アルバイトの稲森の山川は、内側に「病気」を抱える松岡と対照的な「現代の若者」の気質を伝え、いいコントラストを出していた。
坂本の加藤は、もう少し何かやりようがあった気がする。八津に「鬱陶しい」と思わせるほどの粘着性も感じられなかったし、「自分に羽がある」という突拍子もないことを言い出しているというエキセントリックさも感じられない。あまり「気違い」っぽくやる必要はないが、もっと存在感を出してほしかった。
この脚本は、アンナと坂本が八津と内田を苦しめるという構造なのだから、それだけのキャラクターの強さを持たなければならない。その意味では、坂本の演技はもうひとつ物足りなかった。

 また、映画だけでなく、舞台の中でも使われたヴァイオリンの演奏は、不気味なメロディを奏で、また時には悲鳴のような音を立て、不安定な登場人物達の精神状態とよくシンクロしていた。
単なるB.G.M以上の、とても効果的な使い方だったと思う。

 ギャラリーの狭い空間を上手く使った芝居である。
最前列に座ったためでもあるが、久々に役者の息遣いを間近に感じられた。
小規模ではあったが、内容とも相まって、なかなか充実した舞台だったと思う。
夏に第2回の公演があるようだ。
次回もまた、こうした人間の内面を繊細に見せてくれる舞台を期待したい。